昭和41年04月03日 朝の御理解



 信心の道をすすめていくと、信心を頂くということ、信心を頂くということが、信心の道を進むということになる訳ですけれども、それは神様のお心を体し、神様のお心を分からしもらい、その神様のこころに帰依する、近ずいて行く、神様の心へ近ずいて行くとということ、信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃと、信心とは自分の心が神心となりて だんだんだんだん神様に近ずいていくということ、信心の道とはそういう道を教えるのである。
 信心を頂くというのは そう言う様な事を、だんだんだんだん自分のものにしていく、自分の物に頂いていくというものでなからなければ、信心の道をたどらしてもらい,神の思いを思いとして、神様の心を心として、それを体して行くという事にならなければ、信心の道をたどっておる者とは言えない。信心ね、そこに信心のいわゆる、真の信心という信心がとつじょとしてくるのは、そう言う様な思い方、そう言う様な頂き方の中からしか生まれてこない。
 御利益と、おかげと言う様な事が、目指しであっては、だから私が今日申します様なことは分かりません。信心の道をだんだんだんだんtどらしてもらって そこから頂けてくると申しましょうか、いうなら自分の心が段々出生するというか、成長する。神様のほうへ向かって進んで行くにしたがって そのおまかないというか、ね、いうならば給料なら給料が上がっていく様なもの、自然と、ね。
 そこに人間の本当の幸せというものが約束されるのです。そういうその信心を私共が 極めて行く為に その私共の心である所の心をです、 先日からの御月例祭に頂きます様に、心は信心の定規じゃにょよってと、こう仰る自分の心というものを、いつも極めさしてもろうて、自分の心というものを見極めさして頂いて、おかげを頂いていかなければならない。今日 私が申します事は非常に範囲が広い、それを実を言うたら、どこから お話したらよいやら、分からない様な事をお話致しますのでございますから。
 よっぽど皆さんの所でまとめないと漠然と致します。信心さして頂いて一番有り難いと思う事はね、どの様な場合でも、おまかせしきっておれれるということである。信心さして頂いて、自分の思うような 自分に都合のいい様な、おかげを受けるという事が幸せを感ずるのではなく、どの様な場合でもおまかせしきっておれれるという事が、信心の幸せなのです。そこに又 そこからしか夢にも思わなかつた様ないう様なものも頂けてこない。ならおまかせするというのは、お取り次ぎを、お願いをして頂いた。
 自分もお願いする。 それで後は、神様がどうなっとして下さろうと言うものでもない。「お任せ」お道の信心でいう、おまかせというのは、ただ神様まかせというのは、まかせておるというだけではない。そこに生まれてくる心の安らぎとか、喜びというものはです 任せ切るだけの信心が、まかせきるだけの信心が出来る時に初めて その次に与えられるものが安心であり、心の安らぎである。勝彦手を出さんか、腕ぐみどんしてからどうしておかげ頂けるか。
 教祖の神様の御教えの中に 屑の子があれば屑の子ほど可愛いのが親心じゃとこう、ですからそういう様な親心、それが神様の心であるとするならば、私供にはそう言う様な心を目指しての信心じゃなからにや、いけないと言う事ね。例えばここで申しますならばですね、ここで沢山の人が集まって見えられる。だんだん信心をさしてもらい 信心が分からして頂くようになられるとね、必ず私を親先生、親先生とこう呼んで下さる様になる。そんなら私も皆さんをです。
 いわば親先生に対かる所のいわば皆さんの一つ呼び方と言うものも変えてもいい位である。例えばなら私が、長男が御理解を頂いておるに 眠り半分 腕づかみでもして聞きよればです、〃勝彦〃 ここからおらばれる心なのである。そこに私の長男に対する思いと、皆さんに対する思いがまあだかけ離れがあるなと、今 私が瞬間に感じさしてもらった。私の横に座っておられる秋山さんがです(ウ-ス)でぶっくらして、眠り半分で頂いておられる時に“秋山さん“と ここから私がおらばれるだろうか。
 あぁ私の中に、まだいわゆる秋山さんに対する所の、いわゆる神心というものが不足しておるな、という事を感じんわけにはまいりません。その前にまず もしそう言われたら満座の中で 私に恥じかかせたと言うて、いわば腹かかれるかも知れません。そこにです、お互いが信心をです、本当に育て合うていかなければならないなと言う事を感じるのです。だからここん所にまあだまあだ私共の信心がです わが心が神に向かうのを信心と言うのじゃとおっしゃる。
 その神に向かうと言う、その神の心の一部分の中にです、屑の子が可愛いと そう言う心かある。私共の心の中に、そう言う心を目指しておる心があるだろうか。ね、沢山の中にそんな事でどういて、おかげ頂けるかと思う人はいくらもある。けれどもそれをそうと言えば腹を立てる。た私は心を痛めるだけである。これだけではまだ本当のもんじゃないね。「勝彦」そう言う事でどうして御理解頂けるか、と言えれる所まで、その人と私という者の仲が育っていかなければならないという事である。
 皆さんの周囲にもやはり好きな人、嫌いな人がございますでしょう、いや同じ子供の中にもですら それがあるのですから、肉親の子供の中にでも、ね、けれども私共の目指す所のその神心であり、神の心を心としてという事を目指しておるのであるから、私共の心の中に、あん奴あ 好かん奴じゃ ね、あんな男は、あんな女はもう自分の周囲には、かえっておってもらわん方がいいと言う様な心の中にあるならば、こうゆう大変な心と取り組まなければいけない。
 そうその人がです そう言う事ではおかげが受けられんじゃ無いか、とそういう事ではおかげが受けられんじゃないかと それで信心しておると言えるのか と言う様な人がおればおる程ですたい、その人の上に祈りを込めなければおられない、その人の事が可愛ゆうてたまらん、ね。その事をいわば他の、この子は放っといても出来るのであるならば、この人は特に手近において身近に置いて教導していかなければならんのである。言う様な心が 心の中にです。
 頂けてくる様な私はおかげをだんだん頂いていかなければいけない。これなんかも神心への序の口なのである。ね、それで自分の心の中で好きな人嫌いな人、はっきりより分けておる様な事ならです、私はおかげにならんと思う。私共でもやっぱりそうでしたけれども だんだんおかげを頂いててです、ほんとうにあげなことをしよったら大怪我する、慢心は怪我の元と仰るが、あのひとの上にはありありと慢心が感じられる。
 「よか体、一遍けがしてみるがよかたい」「いっちょ、ぎゃふんというてから思い知るがよかたい」と言った様な時代もあったけれどもです、そう言う時ほど、何かその人の上に切なる祈りというものを、掛けなければおられない様な心が、自分の心の中に育ってきておるということが、有り難いと自分で思う。私は非常に好き嫌いが多いのですけれども、人間にもそうなんです、ね、けれども嫌いであるという事、親から嫌われる程 私は不仕合わせなことはない。
 子供にとって、いうなら不仕合わせな子であり不祥な子であり 要は屑の子なのである。私から嫌われると言うのは誰からも嫌われるに違いない。が、私なっとんおもいゅ掛けてやらなければ、誰がこの人を祈ってやる人があるかと言う時にです、祈らなければおられない様な心がです、自分の心の中に育っていくという事が有り難い。私はもう信心というのはもうきりがない。いわゆる神の心を心としていこうと、言う様な大きな事が信心なのだから、心が和賀心が神に向こうていくというのが信心なのだから、ね。
 そこにです、いわゆる神様にならなければ味わえない喜び、心の豊かさ、有り難さというものがです、神様になるという事は大変大袈裟な言い方ですけれども、神様に自分の心が近ずいて行けれる、不親切であったものが親切になって行けれる、真心の薄い人が真心がだんだん強うなって、初めてです味あわせて頂く、その信心の喜びというものがです、私は信心の道をたどらして頂いておる者の姿でなからなければならないと思う。ね、そこから私は、本当のまかせる心というものが生まれてくる。
 親先生が右って言いなさったけんで、安心しとるといった様なもの、安っぽいものじゃないということ。先生が左と仰ったから、もう左の方にしていきゃあ間違いなかですが と そう言う間は本当のおまかせじゃない。目の前の御利益というものがぶらさがっとる。先生のいわっしゃる様にすりゃ御利益が頂けると思うとるから、ですから自分の思う通りにならんと、先生の仰る事もあんまり当てにならんと言うことにまでなりかねない。まかせると言う事はもう本当にまかせるのである。
 左右はあなたにまかせるのである。そのまかせると言う心がです 神心に向かって私共の心が進んで行きよらねばです まかせる心が生まれてこない。まぁ一番早くてっとり早く言うならです、本気で一生懸命の修行でもさして頂いとる時じゃなからなければ、まかせられるもんじゃないということ。本気に一生懸命にです、一生懸命の修行出もさして頂いとる時にこのまかせるという度胸が生まれてくる。
 そしてこれだけ一生懸命になって修行さしてもらい これだけ一生懸命になっておまかせしておるのであるから、ね これは右になったけれども、左になったけれども神様の御都合に違いないという心の安らぎが、その場合でも頂けてくるのである。私はまかせるというのは、そこまで頂かなければ駄目だと思う。皆さんの心の中に育っておる いわゆる神に向かう心というのがどの程度向こうておるだろうか。まあだ嫌いなものは嫌い好きなものは好き、だから好きなものは放卯からかしたっちゃよか。
 いうならば それでも可愛いてたまらんのだから。自分の嫌いなタイプ嫌いな人 例えば人だけじゃありません、けれどもですね、そういう事を大事にしていくという事ずですね、生神金光大神さまがおっしゃる、「全ての事を実意をこめて 全ての事を大切にする」ことではないでしょうか。自分の好きなものは大事にせろと言わんでも実意をこめて大事にしておるんですから。片やいい加減の様にしておっても もう心で大事にしておるのであるから、ね。
 もうこん奴は好かん、もうこんな人は言った所でです 私共は神心となりてそれを大事にしていけれる様な心が果して、お互いの心の中に育っていきよるだろうか。そういう心がです神に向かう心なのだ。そういう心でです、私共は神様にお任せするという様な信心が出来てくる時に、本当なお任せをするという様な信心が、出来てくる時に本当なおまかせが出来る様になる。
 自分の中にです、例えて言うならば、今申します様な心というのは確かに本気で信心の稽古をさしてもらはなければです、そりゃ嫌いなもんは嫌いと、こうつみ切る様に言うしまわなければ仕方がないのである。もう仕方がない。ね、だから仕方がないでは全てを実意を持って全てを大切にすると言う事にはならんのだ。実意丁寧神信心にならんのである。もうありゃあ言うたっちゃ聞かんから、それではおかげはうけられまいが。ね。
それではおかげが受けられまいがと、そこに私は祈れれる心が神に向こうていきよるしるしだとこう思う。願わくばです、私共と皆さんがです例えば、私が御理解中に勝彦に一喝を致しました様にね、を“久富さん”“永瀬さん”と例えばですもういよいよこういう大事な事を伝えようとしておる時にです、そういう御理解を頂く姿勢でどうしておかげが受けられるかと、私がまあ。思うたらです。それが言えれる間柄というものを一つ本当に先ず作っていかなければいけない。ね。
 皆さんが私のことを、親先生というて下さるからにはです、私も皆さんもその親先生に対する所の何と言うたら良いか いわゆる親愛なる氏子としてですたい、親愛なるこの本当の会員としてですたいね 器量の良いとか悪いとか、自分の好きなタイプとかタイプでないとかといった様な事を無視した、言うなら表現と言うか、呼び方と言う様なものが当然出来ていい様な気がする。ね。そこから私はあいよかけよと言われるお道の信心と言うものは生まれてくるのである。
 そしてもう、親先生と言うならですね、どんなに例えば重体の病人でも、あの名医と言われるあのお医者さんに、手を握ってもろうてから死ぬのなら、もうそれで本望だと言う様に、親先生のお取り次ぎを頂いて死ぬなら本望だと、もう心残りはないと言えれる所まで皆さん信心を高められる、ね、おげを頂かして頂いたらです、ほんとに御取次ぎもしよい事であろう。又、おかげも本当に夢にも思わなかった様なおかげも表われる事であろうと こう思う。
 皆さんがああなればよいこうあれば、よいという浅はかなおかげはです、もうたいしたおかげじゃありませんのです、実を言うたら、けれどもそのことでも痛ければば痛い、痒ければ痒いと言って願わなければおられんのが私共であるから、その事は願いは願いとしてですたい、ね それだけではいけん、私、今日そこん所を私は焦点を細かくしてお話致しました。自分の心の中にね 自分の周囲に屑の子が沢山あるはずなのである。ね、その屑の子的な、例えば人なら人に対してですたい。
 私の心の中からもう はずれてしまっておりはしないだろうか、そういう者ほど手近に引き寄せてその人のことが祈らなければおられないと言う信心こそです、心が神に向こうていきよるんである。屑の子ほど可愛いというのが、親の心じゃと仰る親心がそこに生まれて来ておるのである。夕べ私、皆さん帰られた後に あそこに十人余り残っておりましたから そこで又話した事でした。もう本当にお道の信心ばかりはね もう信心は巧者であるとか巧者でないとか、ちょうあんじその事を話すのです。
 出来るとか出来んじゃない、とにかく一生懸命 いわばもうほんとに神心になりてとおっしゃることはです、まず親切な心だと私は思う。ある無学の先生が、二代金光様、四神様に、私の様な無学の者で人が助かるだろうか、と、それが心配だった。その事を御取次ぎ頂かれた時に四神様がおおせられた。親切な心が一つあれば人が助かると仰った。親切な心というのが神心なのである。親が子を思う切なる心を赤の他人の誰彼の上にでも使えるような心なのである。ね。
 その赤の他人と思うとるその人がです、身内の者の様に感じられる、その人の行いがです、、おかげが受けられない様な人であってもです、なる程その人の事を親切をもって祈れゝゝる様な心なのである。自分が助けるとじゃない、取次ぎの者が親切になりさえすれば、ね、人は助かるぞ と、言うてからお話ししたことでこざいます。ですから我が心が神に向うという手始めの心は先ず親切な心、それが自分の好きな人だけにはもう親切にすんなと言うたっちゃ心で親切におるからもうそれでいい。
 ですからあげな奴は好かんという、自分の好き嫌いなタイプの人の上にですね、自分の心の上に親切の無い事を神様に詫びて、せめて形の上だけででも親切を尽くしていくという様な稽古の中にです、親切と言うものは、こんなに有り難いものだということを相手だけではない、自分自身も感じる。神心に成る事がこんなに有り難いことだと、その有り難い心がです、私が今日言う 任せきる心というものは。
そういうものゝ中から生れてくる。同時に一生懸命のそういう信心に取り組んで信心修行さして頂いておる。そこから生れてくる所の「お任せ」言うなら死んでもままよと言う心が任せるのである。と、言う事、死んでもままよという心が、任せる心である。死んでもままよという心、ままよとは死んでもままよいう心、そこに私は十二分の徳ということは十二分の心がだんだん神様に向って進んで行くという事。
 ま人間じゃけんこん位でよか、こん位は当たり前、そう言うておる所には信心の向上はみられないですね。どうぞ一つ折角信心をさせて頂けるのでございますから、信心の道をひとつ辿らなければいけません。そして自分の心の中に、自分で自分の心が拝みたい様な心が育って行くという事をです、願いとしての信心、そこに自分の心が自分で拝める様な心、そういう心を真に有り難い心だと私は思う。
 真に有り難しと思う心すぐにみかげの始めなりと仰る。そういう心の上にみかげはもうそれこそ尽きぬみかげが、ね、頼まんでも限りないおかげが約束される。ね、その限りないおかげが約束される、その事を目指すというのではなくて、先ず自分の心中のそれに取り組まして頂く事を目指しとして行く所の信心をです、私は信心の道を辿って行きよる者の姿勢だという風に私は思うのですけれどもね。
   どうぞ。